徳島県の近代競馬は大阪から流れてきた
当時、関西の私鉄では沿線に集客が見込める施設を造り
沿線全体の活性化を狙うという活動が盛んであり
競馬場設置もその一環だった
大阪電気軌道(大軌:現在の近畿日本鉄道(近鉄)奈良線)が社用地に競馬場の建設を計画し
大軌は競馬場開設の認可を受けるに際し
徳島県の板野郡畜産組合と共同して競馬開催の認可を申請
大阪府はこれを許可した
1926(大15)年2月:徳島県の板野郡畜産組合主催による花園競馬が開催され
大正15年2月21日から3日間競馬が開催された(大阪府中河内郡英田村大字松原)
しかし
農林省は他県の畜産組合が競馬を開催することに難色を示し
この認可を取り消した
その為
この一回限りの開催で廃止に至る
大阪の地を引き払った板野郡畜産組合は
1926(大15)年10月:徳島市助任町の河川敷で許可を得て別宮川河川敷競馬場を開催をする
(徳島市下助任町大字大岡地内別宮河右岸河川敷)
その後
1928(昭3)年:撫養競馬場(板野郡里浦村字坂田地内)に馬場を移して開催する
<昭和6年秋季・板野郡畜産組合競馬会主催・優勝馬投票証>
1933(昭8)年:板野郡川内村榎瀬に移転、地方競馬規則に則った吉野川競馬場を設置する
(板野郡川内村榎瀬及同中島地先)
板野郡畜産組合は徳島市近郊で競馬場の土地を求め
吉野川近辺での移転を繰り返しながら独自の歴史を築いていくが
1939(昭14)年:軍馬資源保護法公布により各県下の競馬場は一場に限定されたが
この交付を機に
徳島県は徳島競馬場と吉野川競馬場の両場を休止とし
後、徳島競馬場は再開されたが
軍用保護馬鍛錬競走に切り替えられ
吉野川競馬場は、そのまま廃場に至る
徳島県板野郡川内村榎瀬及同中島地先
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